
夏…。
水商売の人間関係のようにハッキリとしないグズついた天気が続く。
午前十一時過ぎに家を出て見つけたらそのまま昼飯食って店に向かおうと軽い気持ちでいたら、グルグルとずいぶんあてもなく走ってしまった。
甲州街道沿いのちょっと先になんか看板が出ている。
近づくと中華料理店のように見える。
いつもなら千鳥日記で店名を出すのだが三十路手前ともなったので『Y』とでもしておこう。
ここでいいべ。
ラーメン一杯、さっと食べて帰ろう。
魔がさす、というのは、こういうことか。
後で考えたら普段なら絶対に入らないタイプの店だ。
店内ではサラリーマン風のスーツの男が、ひとりでテレビ見ながら定食らしきものを食べていた。
ガランとした店内に午後の韓流ドラマの音声が響いている。
「イラシャイ」
と近づいてきた五十歳ぐらいの女性店員。
遠目にも化粧が濃い。
それだけでなく、近づいてきたらツンとくる香水か化粧品の匂いが襲ってきた。
その瞬間(ああ、ダメだ)と思いながら、でも迷わず「ラーメン」と言った。
すると店員は、いやこの際マダムと呼ぼう。
「ナニラーメン?」
と少し乱暴に聞こえる中国訛りで急かすように言ってきた。
慌てて壁のメニューを見ると、醤油、広東、味噌などいろいろ書いてあったので一番端のを選んだ。
「えー醤油ラーメン」
「フン、アイヨ」
(俺の何がそんなに気にくわないのか、身にまとった侍オーラか、はたまた鼻の横のホクロか)
そう思ってしまうと、見回す店の内装がことごとく自分の好きなラーメン屋らしいそれとは正反対に見えてくる。
ハングル文字のカレンダーには休みの日に丸が付いているほか、ゴルフと書いてある日もある。
よく見るとホコリをかぶったゴルフのトロフィーもある。
どんどん不安になってきやがった。
水を一口飲んだ。
カルキ臭くて、もっと悲しくなった。
と、思っているうち早くもラーメンができたらしい。
異常に早い。
不審になるほどすぐ出てきた。
香水を振りまきマダムが運んできた。
目があう。
ケツが痛い。
香水の匂いを、ラーメンの湯気にまとわりつかせて、マダムは奥に消えた。
箸は割り箸ではなくて、プラスチックの中国風のものだった。
これ、持ちにくくて麺がすべって使いにくいんだよ。
ツルツルすべる箸でつまみ上げると、少し透明感のある、細いちぢれ麺。
まぁいい。評論家じゃあるめーしとっとと食って帰るべ。
(ぬるい)
その一口で、失敗を確信した。
ヌルイという魔王がこの丼を支配しラーメンを暗黒の世界につなぎ止めている。
麺を半分ほど隠すように広がっているものを見つけてしまった。
知ってる。ワカメだ。
好きじゃねぇんだ、ラーメンにワカメって。
それもこんなにいっぱい。
残そう。
これは食べないで残そう。
味付け玉子、一口かじる。
クール。
キレたろか。
なんか、世の中の何もかもが嫌になってきた。
俺の怒りとは裏腹に丼だけは沼のような静けさを保っている。
悲しくなってきた。
チャーシューを食べた。
表現したくない。
もう怒りは不思議になかった。
激しい嵐のような後悔を鼻の横のホクロと理性が押さえ込んでいる。
せめて麺だけ、胃袋のために食べよう。
腹を満たさないといつも満席の店内を華麗に舞えないじゃないか。
お客さんに迷惑がかかる。
山道の長い長い木の階段を機械のように、足元だけ見て、一歩一歩、何も考えないで登るように食べる。
自業自得。
軽率だった。
迂闊だった。
敗戦処理投手の気分。
もう負けは決まった。
腹が気持ち悪い。
胃袋のためにが逆に胃袋の逆鱗に触れたみたいだ。
「自粛」という使い慣れた二文字が、前頭葉の辺りでチカチカと点滅している。
五〇〇円だった。
何も感じなかった。
水道料金を払うように金を出した。
近くで見たら魔女みてーな顔してんねアンタ。
店を出て、うっすらと差す光りの下自転車のカギを外した。
無実の罪で捕まって、ようやく疑いが晴れて手錠を外されるように、店から解放された。
生きていくのが空しく感じる夕暮れ時。
自転車にまたがりペダルを踏み込む。
今日は夏祭りか。
商店街を抜けるとそれらしき光景が目に入る。
今日も気まぐれでハッキリしない天気。
キャピキャピと浴衣のギャルが笑う。
それに見とれていると隣のギャル男に威嚇のように睨まれる。
ふっ。
今日ほどこの人種をいい奴らだと思えた日はない。
通り過ぎた彼女の残り香はあのマダムと同じ香水の匂いだった。
あぁ。八王子。
文責
とりあえず八王子店
山岸